WWF  

    ワールド・レスリング・フェデレーションの
      今話題のプリンセス・ウォリアー(女王戦士)

           CHYNA シャイナ)

  2000年7月

 原本執筆:キャロル・アン・ウェバー
 挿絵:S&Fマガジン

 写真:Muscular Development
 翻訳編集:S&Fマガジン

                                                                    1 - 3

ま、確かに考えてみたら175cm75kgの筋肉ウーマンが、フィットネスのショーで他の女性と競い合うには無理が有ったのかもしれません。
それは1995年、当時25歳のジョアニー・ロウラーが初めて人の注目を集めようと試みた時の事でした。 当時を振り返り彼女はこう話します。「大きな女性でもフィットネスという分野で、充分通用し、人を楽しませる事が出来るという事を証明したかったの」 と。  そのショーで、彼女が登場する際、司会者に女性プロレスラーになりたいという事をアナウンスに含めるように頼んでたのです。 つまりジョアニーは、この時点で既に自分の宿命というのを理解しており、その為にはどんな手段も選ばないという決意を決めていたのです。

その後2つのフィットネスショーに参加した後、主催者側から手紙が届きました。 そこには、これらはボディビルショーではないので、もう2度と参加しないで欲しいという内容が書かれていたのです。 本来ならここでひるむところが、さすがはガッツのあるジョアニー。 この後自分で自分を売り込む為のビデオテープを自分で作成編集をした物を、知る限りの人に配ったといいます。 「もし自分でしなければ、誰も他にはしてくれる人がいないのを知ってたから、自分でやったのヨ。 それで何とか人に注目してもらおうと・・・」と彼女は話します。 

ジョアニーは決して注目を浴びない存在では有りませんでした。 特に子供の頃は骨太という事で、回りから酷い侮辱を浴び続ける少女時代を過ごします。
15歳の頃、殆どの女の子達は、ジェ−ン・フォンダのフィットネスビデオを観ながらエアロビクスにはまっていた時、ジョアニーはウエイトトレーニングを開始し、あまりにも良く反応する自分の体に素質を見い出し驚いていたのです。
「昔はヘビーウエイトでトレーニングするのが好きで、前回より1パウンドでも重いものに挑戦しようとしていたワ」と話すジョアニー。  しかし筋肉を付けるに従って、益々周りから反感や侮辱をする人が増えてきたのです。 
「良く言われるのが、筋肉は醜いというもの・・・ でも私の人生の殆どは、普通では信じ難い程の侮辱を浴びせられてきたの。 気持ち悪いや醜いやメスゴリラやレズビアンとまで呼ばれた事が有ります・・・。 殆どの場合、私が口すら開く前に人は私を決めつけているのです」と悲しげなジョアニー。
幸いにもこの逆境を一人で強く生きてきたお陰で、精神的強さが育まれてきたようです。 

ジョアニーはニューヨークのロチェスター市で幼少期を過ごします。 両親は彼女が幼い時に離婚。 その後母親は酒に溺れ、男性を次から次に替えていったと言います。 深く繋がっていた姉のキャシーを除いては、家庭は完全に崩壊し切っていたのです。  そんなジョアニーに楽しかった子供の頃の思い出など有りません。 その後15歳にして家から蹴り出され、スペインに移住し、ユナイテッド・ネイションの奨学金で高校を卒業する事になります。

高校卒業後、ヨーロッパを転々とする間に沢山の語学に長けるようになり、フランス語、ドイツ語、スペインを見事に使いこなすようになります。 やがてその能力を認められ、タンパ大学(University of Tampa)への奨学金を獲得します。 そしてこの4年制大学を、GPAを3.8という見事なスコアで、たった2年で卒業します。  その後再びニューヨークに戻り、長年の夢であった女優業を目指します。 ところが人生の選択を間違ったのか、何をやってもさっぱり認められません。 
「どんな役でも喜んでかって出たワ。 ニューヨークのエージェント(俳優事務所)まで尋ねて、お願いに行った事も有るの。 でも皆が言うには、私が出来る役はホラー映画の化けモノや怪獣のような役しか無いと・・・ 誰も私みたいな人は周りにいなかったですから・・・」と話すジョアニー。 

この侮辱に次ぐ侮辱にも関らず、それでもジョアニーは自分の夢を放そうとしません。 「私はコミックブックから飛び出した様な存在になれると信じてました。 丁度”スーパーガール”みたいに。 でもどこにもそんな存在は現実には存在しませんでした。 そんあ或る日、姉とプロレス中継をテレビで観ている時にひらめいたのです! そこにいる女性はモデルのよなタイプばかりで、男性プロレスラーをリングまでエスコートするだけの存在だったのです。 ”私ならあそこへ出て、女プロレスラーとして戦える! この肉体とエンターテイメントの能力を使えば天職となるはず!”と思ったの」とジョアニーは話します。


ジョアニーがWWFの社長であるマクマホン氏にアプローチするのにそう時間はかかりませんでした。 「最初マクマホン氏は、私の事を気に入らなかったのですが、4ヶ月5ヶ月と話している間に、チャンスをあげようと言ってくれたのです。 それからは100%のバックアップをしてくれ、本当に私にとって30年間の人生の中で、初めて努力が報われたようなものでした」と彼女は言います。  その後はご存知の通り、シャイナという名前でデビューし、女王戦士(プリンセス・ウォリアー)が誕生したのです。

レスリングでプロデビューする前は、”殺し屋”で悪評名高いウォルター・コワルスキーの所で、ジョアニーはレスリングの技術を習っていました。 ウォルターの元で習った者と言えば、”トゥリプルH”でお馴染みのジーンポール・レバスキュです。 この当時両者お互いの存在を知らなかったのですが、運命はこの2人を何度にもわたって後に近付ける事となります。 
マクマホン氏がジョアニーに与えた最初の仕事は、トゥリプイルHのボディガードになることでした。 それはトゥリプルHをリングまでエスコートするだけでなく、試合が始まってもリング近くに残り、いざとなればリングに飛び込みトゥリプルHを助けるというものでした。
当のレバスキュは、最初ジョアニーがボディガードに付くと聞いた時は疑っていました。 それで取り敢えず続くかどうか試してみようと。 その当時の事をシャイナはこう話します。 「想像して見て下さい。 毎日40名のむさ苦しい男達と四六時中一緒に車で移動するのですから・・・ 男はブタよ。 恐らくレバスキュは、私がステロイド狂いの女かもしれないという疑いを探るのと、時間と金をこの私に投資するに値するかを知る為にテストをしたのだと思います。 彼は私の事や、私がプロレスから望んでいるものは何なのか知りたかったのです」と。

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